I

築60年のその建物は裏路地にひっそりと建っていた。
木製建具は風が吹けばガタガタと揺れ、雨が降れば枠材の色はしっとりと濃くなり、雪が降れば桟に雪が積もった。雨樋は何年も前から用をなさず、降った雨は屋根を伝って方々に飛び散っている。プールの飛び込み台よろしく、床材はギイギイとよくしなり、薄い薄い壁は非常時に簡単に蹴破ることもできる。どれもこれも限界をとうにむかえていて、まったくもってどうしようもない状態ではあったが、それ以上にこの建物は魅力的だった。一体どれくらい触られたかわからない階段の手すりは角がとれ、わずかに差し込む光を受けて艶やかにそして静かにそこにあった。連装の窓によって明るさと開放感あり、そのデザインには時代を感じさせないモダンさが随所にあった。建物の高さも2階建にしては低く、その佇まいは控えめで嫌味なところがない。そして何より多くの人に愛されていた。玄関横の土足で入れる部屋や2階の大広間には夜な夜な人が集まり、酒を交わし、鍋を囲み、刺身を突き、大いに語らい、雑魚寝で朝を迎えた人たちが数え切れないほどいる。だからこそ持ち主はただキレイで使い勝手の良い建物にしたいわけではなかった。60年の歴史を引き継ぐように、整えるように手を加えた。まるで最初からそうだったように。これからもまた愛され続けるように。

​写真:畑拓